痛みを音楽に変える音楽 [彗星パルティータ/阿部薫] (1973)
痛みを音楽に変える音楽 [彗星パルティータ/阿部薫] (1973)
全くもって無事ではない音楽の中では無事なのかもしれない希望が消えない音楽は、いつかこの音楽がそうさせるように願うことでしか自らの運命を見つめられなかった者による演奏でしか完成に至れない。
80分間だけは私の身体の痛みと共鳴して、80分間だけは耐えきれない痛みも自分の身体が奏でる音楽に変わっている。
痛いの痛いの飛んでいけ。
痛いの痛いの空に飛んでいけ。
「When you hear music, after it's over, it's gone in the air. You can never capture it again.」
音楽は空に消えるだけだ。
再び捉えることはできない。
阿部薫「彗星パルティータ」は決して鎮痛剤にはならない。だが、少なくとも自分の力でこの渦巻く痛みを音楽に変えられるようにと阿部が絶望を誰かの希望に託して演奏で残していることに気づく。
私の痛みが音楽に変わり空に消えていく。
音楽を再び捉えることはできないと、Eric Dolphyは言った。阿部はドルフィーの強固な理論に隠された運命、Eric Dolphy『Last Date』に吹き込まれてしまった「When you hear music, after it's over, it's gone in the air. You can never capture it again.」というドルフィーの運命で縁取られた真実と向き合うセリフにありったけの希望を見出したのだと思う。
『彗星パルティータ』はあなたの痛みを音楽に変え、そして、あなたの音楽は空に消えていく。
もう語ることなんてできない。
そうして音楽が消えた後、『彗星パルティータ』の痛みはあなたに痛みを作らせる。
痛みがなければ痛みを引き起こす音楽を聴け。
それは確かに、自分の力で得ることのできた痛みになるはずだ。
阿部薫『彗星パルティータ』は「痛みを音楽に変える音楽」であり、「痛みを痛みに得る音楽」だ。
私は「未完成」という文字を添えた『彗星パルティータ』に「痛みを音楽に変える音楽」と「痛みを痛みに得る音楽」の連鎖を感じてやまない。