日記1/3

日記1/3

 朝、家から歩いていく範囲で最も遠いスーパーマーケットへ行った。これはいつも通りの意味合いを持たせた散歩だ。幸い、あそこはこの街で一番安い弁当を取り揃えている。
 休憩。最近ハマっている梨ちゃんねるの動画を見る。文芸誌の感想を話しているようだ。これは前に見たものと同じだったかもしれない。手持ち無沙汰になった私はアコギを手に取ってBlackbirdをなんとなく弾いてみる。ポール・マッカートニーの練られた作曲にしても(サラッと書いていた可能性にみな驚かせられるのだ)、Twitterの戯言にしても、青空を横切る燕にしても、物語には大事な鳥がいた。
 コンドルは飛んでいく。かもめが翔んだ日。紙飛行機を投げると、さえずりになる。
 思い返せば、朝、あのスーパーマーケットからの帰り道だ。
 長い時間、空を見上げていた。今日の予定なんてものを考えたくはなかった。そこには、ひこうき雲と青空が逆さになったような、大きな雲を切り分けたような、珍しいひこうき雲があった。その雲には名前があった。消滅飛行機雲と呼ぶらしい。思わず、良い名前だね。と言った。
 私にとって初めて恋という感覚を意識した人間の名前は"まゆ"だった。
 題名が好き、タイトルが好き、ビジュアルが好き、デザインが好き、ジャケットが好き、君の名前が好き。良い名前だね。
 飛行機が、雲を消滅させながら作っていくひこうき雲に、何も覚えていないと、さっきの会話が耳から耳へと流れて行った昨日の朗らかな友人を覚えている。
 夕方の休憩。この日記の題名は夕陽1/3という名前から取った。
 私は音楽のことを強く人間だと思っているのだな、と思わせられることがある。坂口安吾の「ふるさとに寄する讃歌 夢の総量は空気であった」のある部分が、私のそれをよく現していた。昨日のTwitterでのことだ。
 あの曲を歌う4人のアイドルは3/4、もうアイドルではないと思う。違う空を飛んでいった鳥が偶然同じ木の枝に留まって、全く同じ時間にさえずりを響かせることがあるのだろうか。そんな再録をいつまでも願うことができる。同じ曲で新しい録音があるという状況は、新しいものと古いもの、今どちらの君と話したいのか、それを選びに行くことだ。目を開けたままにして口も開けるのか、目を閉じて口も閉じるのか、いつだって問いかけている。
 "全部やりたいことできなくてもこんなキレイに終わりたい" あの曲の歌詞だ。
 私は美しく終わることに執着がないから、だから夜遅くまで眠れずに、興味があることを、やりたいことをやり続けてしまう。今、そんな夜を幸せだと思える境遇を、今だけは幸せだと思うことを許してほしい。もちろん過去の自分に対してだけにそう言っているつもりだ。
 今すぐに太陽が眠ることはないと知っているけれど、眠りに落ちていくと感じる姿を見て美しいと思う。寝ることは美しい。明日でも明後日でも良い。夕陽だけでも見に行こうよ。
 色覚の多様性に言及していたあの動画を思い出して、帰り道はドラッグストアに寄った。そこは一週間ほど前、コミックソングシューゲイザー、レゲエの店内BGM、友人との散歩でこの面白い流れについての考えを共有した場所だった。その時も帰り道だった。ついでに買うものを思い出したからだ。
 あの曲を思い出したのは数ヶ月ぶりだが、あの曲を聴いたのは数年ぶりだった。
 このまま思い出す頻度が減っていくものが増えれば、それはどういうことか。現実を見ろという言葉の隣に、過去を見ろという言葉が並ぶのかもしれない。どちらも嫌な言い方だと思う。
 少しだけ前に、私は今あるノスタルジーをやりつくしたいとツイートしていた。それがどういった感覚の傲慢なのか、どちらの嫌な言い方に重心があるにしても、嫌な言い方だと思ってしまう。
 マザーネイチャーズサン。ありふれているけれど、ママって名前をつけてやる。スピッツめ。いつも良い名前だと思う。母性本能とはこのことか。太陽サンサン、さっきの曲の題名は息子の意味だった。3/5の指を使いアコギを弾くポール。レノンマッカートニーみたいな名前、で覚えたポールアンドジョーというコスメブランド。あれはスリーフィンガーピッキングという。両手を使っている。ライブの観客は多い。太陽は一人だ。沈む夕陽を見る二人は一人だ。また一人になってしまう。そんな時いつも月が顔を出す。Nat King Coleが歌うBlue Moon。お前がオレのキングだ!みんなそう言っている。素晴らしい名前だ。良い天気だと思う。
 帰宅。真っ暗な家に入り、電気を付ける。それはいつも同じ場所にあった。この家にはいくつの照明が、さっきの夜空にはいくつの星があるのだろうか。見えないものを数える。それは目をつぶれば見えているものを数えるだけだ。
 今日も夜は長い。夢を見たい。

日記1/3 終わり (残り2/3)